2012年02月17日

信頼、と、愛、と、絆

よく、愛する、という定義について言われるし書かれている。

信頼と尊敬、この二つが愛には不可欠、という定義がある。

でも、一目見たとたんに、例えば子供のことは愛さずにいられない。

生まれたての赤ん坊に、人格は求めていない。
信頼とか尊敬とか、そういう概念を持とうとはしない。
わが子をこの胸に抱いた瞬間に、確かな愛が生まれる。
それは、確信であり、絆であり、逃れられない運命。

一目ぼれ、というのがあるけれど、あれもそんな感じ。
目と目があった瞬間に、握手をしたその刹那に、恋に堕ちている。
その人の名前、年齢、既婚か独身か、どんな学歴か、どんな趣味なのか、
全然知らないのだから、信頼も尊敬も関係ない。

恋する、と、愛する、という言葉を、日本語は使い分ける。
でも、欧米の言葉にはその違いはない。

所謂、恋フェロモンが出て恋は盲目状態の間は恋で、その後も
恋フェロモンが無くなった後も、続く感情が愛、という風に
日本人は多分、心の中で定義しているのだろうと思う。

家族に対して、恋はしてないけど、愛している、という風に日本人は
感じているし、そういう風に愛情の種類というのか微妙な感覚の違いを
言葉に出来ている、ということは、日本人の感性が素晴らしいからだと思う。

でも、というのか、だから、というのかはわからないけれど
愛することに定義は要らない、という気がする。

子供は色々な問題難題をふっかけてくるから、常に信頼できるわけじゃないし
頭を抱えることも一杯あるけれど、でももし自分の子供が悪党になっても
愛している事に変わりはないだろうと思う。

愛するという、この感情=気持ち=心理は、相手がどんな状態でも
性格が悪くても、裏切られても裏切っても、それでも繋がりを
断ちたくない、どこかで繋がり続け、そしていくらかでも良い関係を
築いていくことができないか、何か役には立てないか、と、心の深い
処で、関係の持続を求めるもの、つまり絆を感じていたいと
いうものなのではないか、という気がする。

最近、何十年と続いてきた友人との関係が、とても悪化していて
友人の状態、態度の酷さに参っていて、その言動にとても傷ついていて
これで、もうこの何十年来の友人を失うのかなという悲しみが
あったのだけれど。。。

信頼していなくても、尊敬できなくても
それでも相手といつかより良く繋がれないか、いつかまた楽しく
話ができる日がくればいいと願っている自分に気付いた時、
それが絆だろうし、そういう自分がいる限り、友人を失うことは
ないのだと思っている。
そういうことが、愛するということなのかもしれない。
posted by yukiko at 12:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記